百合に男が挟まること、の再考のこと
百合に男が挟まること、の再考という記事を書きました。ニュースレターに載せるためになんとなく書き始めましたが、2000字前後になったのであまねけ!送りにしたものです(あまねけ!ニュースレターではトピックごとに500字~1500字くらいの分量を心がけています)。
「百合に男を挟むな」というのが、ミサンドリーから出る生理的嫌悪によるものなのか、表紙あるいは紹介で内容を誤解させた不誠実さへの怒りのよるものなのかは分かりません。しかし、その嫌悪や怒り自体は正しいものでしょう。問題は、その感情を正当化するための論理にあります。
記事に書いた通り、現代の「百合」の定義は非常にあいまいで、恣意的で、不誠実です。百合から男を排除するためにその不浄さや有害さを強調し、「百合」という言葉の清純なイメージを用いて引き剥がしたかと思えば、インモラルで不誠実に振る舞うキャラクターが女性であるだけで「百合」と認めています。
これは、時代の変化によって生まれた新たな女性同性愛作品を追認し、仲間に入れるために無責任な拡張と類推が繰り返されてきた結果です。その上で構築される
百合公認のような取り組みは、無意味な権威を与える有害な概念とさえ言えます。
もちろん、「百合」が男性性の嫌悪の先にある安息の地であることも確かでしょう。何度も言うとおり、それ自体に問題はないのです。問題は、その女性至上主義を隠して正当な(そしてポリティカル・コレクトネスな)論理を構成しようとしている点にあります。あいまいで恣意的な百合の定義は、いつでもそのような仲良しごっこの論理を正当化するためだけに存在しています。